今回は以下の過去記事の続きです。
過去記事では「なぜ企業はここまで規模が大きくなったのか」について書いたのですが、その概要を簡単に書くと
- 時代が規模の大きい組織を求めていたから
- 「規模の経済」という言葉があるように組織の規模を大きくすることが、ビジネス上有利だったから、メリットがあったから
ということだったからだと考えられます。
今回の記事では、このことによって何が起こったのか、知識社会における組織や個人のあり方について考えていたことを書いていっています。
資本と労働の分離
前回の過去記事では、ちょっとだけ「資本と労働の分離」について触れました。それは産業革命によって工業社会が到来、蒸気という新たな動力源とする大型の機械を開発できるようになったからです。
そのような大型の機械というのは大変高価であり、それを上手く利用して製品をつくるには多くの人手が要ります。ですから多くの人々を組織的に働かせる必要がありました。
企業というものが、今日における規模にまで大きくなった理由のひとつはこれです。
当時こういった大型の機械や工場を所有できたのは、工場で機械を使って製品をつくる労働者ではなく、たくさんのお金を持っていた一部の資本家でした。
ここで工場や機械という生産手段を持つ「資本家」と、そこで働く生産手段を持たないが、体や体力がある「労働者」への分離が起きたわけです。
『資本論』で有名なカール・マルクスは近代工業社会と、それ以前の中世社会との決定的な違いはここにあると考えました。
この「決定的な違い」の具体的な説明に関しては、堺屋太一さんの『知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる』に次のように書かれています。
p.238
中世においては、農民はその耕す土地に対して一定の権利(耕作権)を持ち、種子や農機具も持っているのが普通だった。
商人は店舗や商品を持ち、商いをする権利を認められていたし、手工業者も道具と働く場所を持っていた。
勿論、年貢や税金を徴収する領主権がその上にかぶっていたが、理由なく耕地や商権や道具を他人に奪われることは原則としてないのが正当な状態と考えられていたものだ。
その意味で、中世社会では、生産手段と労働力とが一体化していたわけである。
つまり、近代工業社会と中世との違いの1つを挙げるとすれば、中世社会は「生産手段と労働力とが一致していた」、これに対して近代工業社会は「生産手段と労働力とが分離していた」ということです。
このことは、現代社会と比べて何を意味するのでしょうか。
知識社会は「生産手段」と「労働力」とが一致した社会
その人、本人がそれまでの人生において獲得してきたもの、蓄積してきた「知識や経験、感覚」というものは、その保有者自身によってしか使うことができないものです。
以下の過去記事にも書きましたが、その人のお金や物理的な持ち物は奪えても「知識」までは奪えないということです。
このことは、「居住地に拘束されない」という属性も付加されます。現代社会の中で例えるなら、プログラマーやエンジニアといった人たちはパソコンが使える環境があれば、仕事をするうえで別に東京にいなければならないというわけではないのです。
利便性を考えれば東京に住むに越したことはないのでしょうが、その人の知識や経験をお金と交換することができるのであれば特定の場所に縛られないということです。
法人組織から属人組織へ、という発想について
『知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる』を読んでいて「なるほど」と思ったのが、法人組織から属人組織へという発想です。
この発想の説明をする前に、資本と労働の分離した工業社会における組織について、別の視点から確認してみます。
p.243
生産手段が大規模な機械施設のような個人の所有を越えた物財であった工業社会においては、そうした生産手段の所有主体としての疑似人格たる法人が発達したのである。
巨額の資本を要する大規模生産手段を整えるためには、多数の人々から資金を集める必要があるばかりでなく、それを継続的かつ効率的に活用するためには個人の寿命と能力を超越した権利の主体と管理運営組織が有利だからである。
つまり、大規模生産手段を整える必要があった工業社会では「株式会社」を通した大規模な組織化は有利だったわけです。
先に書いたように、大規模な生産手段を所有するには豊富な資金が必要でした。以前であればそれを「資本家」と言いましたし、現在は「株主」と言ったりします。
今までは、大規模な生産手段がないと製品がつくれないから多くの労働者は資本家や株主の指示に従わなければいけませんでした。
なぜなら、資本と労働が分離していたから、高価な大型の機械がないと製品をつくれなかったから、
外食産業で例えるなら駅前の一等地という恵まれた場所に店舗を借りて、調理器具を一式そろえて、高い広告費を使って人を雇って、営業するためには個人の資金だけでは無理で、企業に資金をだしてもらわないといけなかった
だからそこで働く人は、例え理不尽な指示を受けても、死人が出るほどの過酷な労働を強いられても甘んじてそれを受け入れるしかなかった、からです。
しかし「資本と労働が一体化した社会」ではどうでしょうか。
その人とは不可分な知識や経験を主な生産手段とする人、例えばデザイナーやライター、プログラマー、会計士といった人たちが組織からいなくなることは組織にとって生産手段を失うことを意味します。
なぜなら現在、もしくはこれからの知識社会では、大型の機械やそれによってつくられた製品ではなく、知識や経験に価値が置かれるからです。これが優秀な人であればあるほど組織にとっては大きな問題となるでしょう。
要は、これからは、その人の知識や経験に依存した社会、固定化された地位ではなく流動的な社会になっていくということです。法人組織から属人組織へというのはこのことです。
というのも、インターネットやパソコン、ITといった技術の発達や製品のおかげで、その人の知識や経験が「生産手段」として利用にできるようになってきたからです。
そのことをよく示しているのが、以下の過去記事で書いた事例です。
最近の派遣社員の職種別時給事情からわかるように、ランキングの上位には高い時給の高度な知識が必要な職種が集中しています。
これは先にも述べた通り、一人の個人において
- 資本と労働の一体化
- 生産手段と労働力の一体化
が可能になってきたことが理由です。これは今までのようにひとつの組織に縛られる必要がないことを意味します。
東南アジアなどの新興国の発達に伴い、企業は競争力を維持するために安い人件費や安い土地代、そして新たな市場を求めて海外へ工場を移転させていきました。
また、パソコンやインターネット、ITという製品や技術が生まれてきたことで今までよりも効率的に仕事ができるようになってきました。他にも新たな価値観や働き方を提供してくれました。
こういった状況における日本において、組織化された大規模な株式会社を追求することや、個人の知識や経験を生かさずに、旧態依然とした慣習で埋もれさせてしまうことは、ここまで存続してきた組織の死を早めてしまうのではないかと考えられます。
ですから、現在存在している企業がこれからも維持・発展していくためには、年功上列ではなく個人の知識や経験をもっと生かすべきです。そうしないと人手を確保するのが難しくなっていく、そして今までの地位を維持するのが難しくなっていくでしょう。
なぜなら、今までのような旧態依然とした古い世界だけだったなら労働者も我慢していたでしょうが、年功序列じゃなくても良い条件の給与で良い待遇で働けるもう一つの世界が構築されつつあるので、多くの人がそちらに流れていくからです。
個人においては、1つの組織に埋もれないように、現在のここまで発展してきた知識社会の機能をもっと利用すべきでしょう。
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