土地に依存して閉鎖性が高い『下流老人』では申請主義のセーフティーネットに気づくことが出来ない

今回は以下の過去記事の続きで、『下流老人』を読んで感じた3つの問題点のうち、3つ目の人間関係について書いていきます。

頼れる人間がい「ない」とは

頼れる人間がい「ない」とはどういうことなのでしょうか。例えば、地方の例で言えば、都会に比べて人間関係は深く、助け合って生きている高齢者が多いのではないか、頼れる人間がいないということはないのではないか、というイメージがあります。

 

しかし本書では次のように書かれています。

p.114

たとえば第1章でもすでに指摘したが、今後は子どもが親の面倒を見る、高齢期の生活を家族が扶養することはほとんど絶望的になる。

 

先に見たとおり、65歳以上の高齢者の子どもとの同居率は、昭和55年(1980)年の約7割から平成24(2012)年には42.3%まで下がっている。一方で、高齢者の独居世帯は、着実に増加の一途を辿っている。

 

高齢者の親と一緒に住んでいた経験がある人はとくに、自分の老後に対してもつい同じようにイメージを抱いてしまいがちだ。しかし、もう老後に子どもと暮らすという選択肢は失われつつある。

確かにそれは言えるかもしれませんね。インターネット上でも、もう地方には仕事がない、だから若者は東京などの都会に行かざるをえないんだ、という書き込みをよく見かけるようになりました。

地方は仕事は少ない

 

自分の経験でも、都会の仕事に厳しさを感じて実家に帰ろうと思った時もありました。その時に父から「こっちに仕事なんかないぞ」と言われて、今の場所に踏みとどまった経験があります。

 

地方の若者は仕事がないため、東京や大阪などの都会に移動せざるをえず、逆に都会に住んでいた人間はもう地方に戻れないような構造ができつつある状況だと言えます。

ITや技術の進歩によって国境というものがなくなりつつある

 

なぜこのような状況なっているかというと、ITや技術の進歩によって国境というものがなくなりつつあるためです。

 

今までであれば、地方には工場などの働き口がありましたが、外国との競争の激化から、中国や東南アジアなど人件費や土地代が安い所に移転せざるをえなくなっています。

 

そのことについては以下の過去記事で触れました。

他にも次のような記述があります。

p.116

また、とくに都市部では携帯電話やパソコンがないと不便なことのほうが多くなりつつある。インターネットを中心としたインフラも「誰もが端末を持っていること」を前提にシステム化されつつある。

 

それらの商品を買わなければ、普通の社会生活を送ることができななくなるような土台が築かれつつあるのだ。

これらのことから、働き口や生活のこと、現在のシステム化された社会に対応できるような頼れる人間(特に若者など)がい「ない」状況が進展している言えます。

高齢者の一番の問題点は、結果として「土地に依存している」

 

しかし、自分が考える高齢者の一番の問題点は、結果として「土地に依存している」ことではないでしょうか。

 

そのことについては以下の文章を引用してみます。

p160

田舎に高齢者はたくさん住んでいるが、その大多数が元来その土地で暮らしてきた人々だ。築いてきた生活基盤や所有する資産がまったく違う。

 

何より体力が衰え、資産の少ない高齢者が、誰も知らない土地に一人で移住すること自体に、大きなリスクを伴う。体力があり、就労もできる若者が地方に移住するのとはワケが違うのだ。

長年同じ土地に暮らしていれば、その土地に愛着を感じ、そこに住む人々とも深い関係になるでしょう。しかし逆にそれが仇となってしまっていると思われます。

 

新たな産業をなかなか見出せず、地方の衰退については多くの所で論じられています。今までの土地で新たな産業をつくっていくか、

 

もしくはその土地から脱出して、都会に移住するかという選択肢を迫られた時どちらも難しいというのが本音だと思います。

頼れる人間がい「ない」ことに対する対応策

頼れる人間がいない、というのであれば国が高齢者を支援する、という方法を取る必要があるかもしれません。

「生活保護」という選択肢も考えるべき

申請書類とペンのイラスト

本書では「生活保護」の必要性について書かれています。ちなみに生活保護とはwikipediaでは以下のように書かれています。

生活保護(せいかつほご、英語: Public Assistance[1])は、日本の生活保護法によって規定されている、経済的に困窮する国民に対して、国や自治体が、健康で文化的な最低限度の生活を保障するために、生活費を給付する公的扶助制度である。

昨今の生活保護に対する国民の認識は厳しいと感じます。ほとんどの人は本当に生活に困ってしまって生活保護を受けていると思いますが、一部の不正に受給する人によって生活保護に対するイメージは悪化していると感じます。

「申請主義」という生活保護の問題点

このような生活保護に対して、本書ではいくつかの問題が指摘されています。そのひとつが「申請主義」にあるとのことです。

 

この申請主義の背景には「国民には社会福祉制度を利用する権利があるのと同時に、利用したくないという権利にも配慮しなければならない」とあります。

 

しかし多くの高齢者は、こういった「選択肢」すらあることを知らないと書かれています。その問題に対して次のように書かれています。

p.138

なぜならほとんどの高齢者が、選択肢があることすら知らないからだ。社会福祉制度は専門家ですら全容を把握しきれないほど、広範かつ複雑にできているが、国民に対してそれを知らせたり、学習機会を与えることを国はしていない。

 

「ホームページを見れば書いてある」というのは知らせることにならないし、その情報にたどり着けるほどITリテラシーの高い高齢者がどれほどいるだろうか

 

p.139

それは下流老人が社会に助けを求めるという発想自体を持てないということでもあるし、生活保護に対する無理解から声をあげにくい雰囲気が醸成されてしまっていることもある。

 

実際、貧困に対する社会的な理解は、日本では相当に遅れている。貧困の構造理解が足りないため、なぜ貧困に陥る人々がいるのか、正直わからないという人々が多い

 

確かに自分も生活保護に対するイメージはあまり良くないかもしれないです。一部の人間によって生活保護に対するイメージは歪められてしまっているでしょう。

 

本当に生きるか死ぬかの時に面子に拘っている場合ではないので、そのような状況に追い込まれてしまったら、生活保護という選択肢を考えても問題はないと思います。

 

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