「検索」「決済」と本屋を比較して思う情報空間の利便性について

インターネットという技術が生まれるようになると、人間によってそこに膨大な情報が生み出されていきます。

 

そしてグーグルクロームやインターネットエクスプローラーなどのブラウザというソフトから膨大な情報の中から意図した情報を見つけるために「検索」という機能が生まれました。

 

最近はインターネット上でも料金の決済ができるようになりました。例えばアマゾンなどで欲しい本があった場合、自分のクレジットカードや口座の情報を登録すればできるようになります。

 

これらの「検索」「決済」という機能によって、今の時代の人間は欲しいものを非常に簡単に手に入れることができるようになりました。

 

今回はそのことで思うことがあるので書いていってみます。

「藁の中から針を探す」

「検索」と「決済」という便利な方法が生まれるようになると、例えば具体的に「○○という本が欲しい」と決まってはいなくても、何らかの分野の本が欲しい時でも簡単に手に入れることができるようになりました。

 

今までであれば「本屋に行って、自分の希望する分野のコーナーなどに行って本を探す」という手段が比較的多い方法だったのではないでしょうか。

 

ですが、物理空間において膨大な本の中から意図する1つの本を探すというのは途方もない作業です。

 

まさに「藁の中から針を探す」作業になるでしょう。

 

というのも自分も何度か経験があったのですが、それは事前に調べたあるはずの本が「なかった」という経験です。これがどういうことだったのか説明しましょう。

「検索」と本屋を比較して思う情報空間

インターネット上で欲しい本が見つかって、そこから注文する場合、配送されるまでにはどうしても時間がかかります。

 

そのため本屋に行って欲しい本を買おうと思ったときがありました。しかしこの時は実際の本屋に行って本を探すというのは一苦労でした。

 

今は本屋に検索機能がついた端末があるのでまだいいですが、昔はこのような機械はなかったでしょうから自分が意図したものを探すというのは本当に大変なことだったと思います。

 

しかし検索機能の端末を利用したとしても安心できません。

 

例えば「データマイニング手法 探索的知識発見編―営業、マーケティング、CRMのための顧客分析 (3訂版)」という本を探すにも、その場所は紀ノ国屋書店新宿本店の「棚番:4F-F23」という情報だったとします。

 

そしてその場所に行って、本を探すにもまた一苦労するのです。「だいたいこの辺にある」という「あたり」はつけられても、「これ」という風にピンポイントで手に入れられるわけではありません。

 

その場所に行って本を見つけ出せればいいのですが、自分はこの時に欲しい本を「2回」買えない時がありました。

 

どのような意味の「2回」なのかというのと、この時までにどのような行動が必要だったかを整理します。

 

本屋で本を買うために必要だった作業とその結果

まず事前にインターネット上で検索して欲しい本を探し出します。すぐに欲しい本なので実際の本屋に行って買うために、その本が置いてある本屋も検索します。

 

同時に欲しい本の在庫があるのか、加えてその本屋のどこに置いてあるのかもメモします。そこから徒歩や電車によってある程度の時間をかけて現地に到着し、その本が置いてある場所のメモを手がかりに本を探します。

 

しかし見つかりません。メモの内容を書き間違えたのか、その本屋にある端末を使ってもう一度欲しい本の名前を検索します。そこで本がある場所が書かれたシートをプリンタアウトしてもう一度あるはずの場所へ行って本を探します。

 

どうしても見つかりません。そこでしびれを切らして近くの店員に聞くと、どうやら「ない」ことがわかりました。

 

原因はわかりませんが、本をデータベースに登録した時に何らかの手違いがあったかもしれませんし、事前にインターネット上で見たときは在庫があっても、自分がその本屋に向かう途中で本が売れてしまった可能性もあります。

 

とにかく今までの作業が無駄になってしまったわけです。逆に言えばこれらのことをインターネット上でのちょっとした作業でなくすことができるようになったわけです。この時に思いました。

 

「『検索』と『決済』ってすごいことだな」と。

情報空間における現在と過去

今の時代は、まだインターネットを通して「世の中にはどんな本があるのか」といったことや、さらに「どこに欲しい本がある本屋があるのか」といったことがわかるのでまだ恵まれています。

 

ですが、インターネットを通した「検索」や「決済」という技術がなかった時代は自分が経験したようなことが日常茶飯事だったのではないでしょうか。

 

昔であれば、様々な障害が存在したはずです。例えばそもそも欲しい本が「存在するのか」どうかわからないということあるでしょう。仮に存在したとしても、その情報に「アクセスできない」といったことが挙げられます。

 

とりあえず何らかの手段によって、この世界に自分の欲しい本があることがわかったとします。ですが、その本がどの本屋にあるのかわからないといったこともあるかもしれませんし、そもそも「取り寄せてもらう」という方法すら考え付かなかった可能性もあるかもしれません。

 

人づてに「こういう本が欲しい」といっても限界があります。じゃあ図書館に行けばあるのか、ということを考えたとしても、世界の全ての本が揃っているわけではありません。

 

もっと言えば東京や地方といった物理的、距離的な制約もあるでしょう。東京はかなり恵まれていますが、自分が住んでいた地方というのはそもそもまともな本屋や図書館がないのです。

 

ですから最終的には諦めざるをえなくなります。そうなると知識の獲得や蓄積が進まず、東京と地方の格差が拡大、固定化されていってしまうでしょう。

 

そのような様々な障害によって格差が固定されていた、とも言えるかもしません。

 

今は格差が拡大しているとか、格差が固定化していると言われていますが、自分は逆ではないかと感じています。しかしそれは「パソコンやインターネットを使えるかどうか」という条件がついてしまうでしょう。

 

何か欲しいものがあった場合、世の中にどのような技術があるかを認識できるかどうかということや、それを有効に使うことができるか、といったことが人間というものが今後豊かに生きられるかどうかの分岐点になるのではと思います。

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