ここ数年の技術の進歩は目覚しいものがあります。人口知能の発達によって現在の私たちの仕事の半分はなくなってしまうんじゃないかという話もあります。
最近の話題では、仮想通貨のビットコインについてよく目にします。この技術にはブロックチェーンというものが使われているようですが、この技術は仮想通貨だけではなく、別の業種などで応用されたビジネスも進んでいるようです。
一昔前までは夢物語だと思われていたことが、段々と現実味を増していっている世の中ですが、最近思ったことがあります。
それは、いくら周りの技術が進歩して生活が便利になったとしても、そういったテクノロジーの利益を享受できるかは結局は「本人の勉強と選択次第」ではないか、ということです。
今回はなぜこんなことを考えたのかについて思ったことを書いていってみます。
なぜ「勉強」と「選択」という言葉を使ったか
当たり前といえば当たり前ですが、勉強しなければそれなりの選択肢を持てるようにはならないでしょう。
例えば高校受験や大学受験でもあまり勉強しなければそれ相応のレベルの高校や大学を選ばなければなりません。一方でたくさん勉強して、見込みがあればやはりある程度のレベルの大学を選択するでしょう。
もちろん全てがそうだとは思いませんし、それほど事は単純には進まないとも思っています。というのは、勉強も大事ですが、勉強を「継続」することも大事だからです。
単純に知識を得るにはある程度の時間や期間が必要だからというわけではなく、「新しい選択肢」が提示されない、見つけることができない、と言えばいいでしょうか。
言い方が難しいですが、このような事象に対して「計画された偶発性理論」という言葉もあるようです。
人間は「見たいものしか見ない」「見たいように世界を変換してしまう」習性があると言われたりします。確かにそれはあるんじゃないかと思います。
例えば「今の会社を辞めて他の会社でも雇ってもらえるような人なんて極一部のとてつもなく優秀な人だけだ、だから自分が会社を辞めたら人生終わりだ」と思っている人もいるでしょうし、
一方で「別に特別優秀じゃなくても日々コツコツと勉強していれば、今の会社を辞めても別の会社で働くことは可能だ。実際それを何度も経験してきたし」という人もいるかもしれません。
ちなみにこの二つの感覚を自分は経験してきています。
前者のときは確かに勉強も経験も足りていませんでしたが、今でもまだまだ未熟ですが、当時「生まれや大学で人生が決められるなんてそんな卑怯なことどうしても納得できない」という想いがありました。
ですから自分が見たい選択肢を選びました。
人間には「見たいように世界を変換してしまう」という習性があるようですが、自分にとって「見たい世界」を選択したわけです。
非常に長時間苦しみながら働き、「辞めたい」とは思っていても辞めずに会社で働いている人も世の中にはたくさんいると思われますが、それはそれでその人が「そのような世界」を「選択している」とも言えます。
「できる奴にまかせておけばいい」で本当にいいのか?
この項目で書くことは次の項目で書くことの説明でもあります。
『日本がヤバイではなく、世界がオモシロイから僕らは動く。』という本を最近読んでいました。この本を読むきっかけは現在の職場から「外国」というものを意識するようになったからです。そのことについての詳細は以下に過去記事として書きました。
で、本書において次のような印象に残った文章があったので引用してみます。
p.211
数年前、パソコンが世の中に普及しだした時、「パソコン?できるやつに任せておけばいい」と言っていた人たちが、後で必死になってパソコンスクールに通っていたのと同じような状況が英語においてもやってくる。
これから、今以上にビジネスの世界で活躍していきたいという人であれば、英語は必須スキルだ。
日本において今後英語を学んだ方がいいかということについては様々な意見を目にしますが、英語に限ったことではないと思いますが、引用した文章の内容については「なるほど、確かに」と思わされました。
新しい技術が生まれたとしても、人間がその技術の使い方を学ばなければその人の利益になったり生活が便利になったりはしません。
例えば「自動車」というものが発明されても、その乗り方や使い方を知らなければ遠くに楽に移動することはできないでしょう。自動車というものの存在や概念がわからなければ、大きな労力が必要になってきてしまいます。
例えば何らかの用事で重い荷物を東京都から青森県まで運ばなければならなくなった時、自動車というものの存在や概念すらわからなければ徒歩で運ばなければいけなくなるかもしれません。
逆に「自動車」というものの存在や機能、概念、使い方を知っていれば、もちろん自分で動かすという選択肢もありますが、郵送で送ったり、配送業者にお願いするという選択肢も考えることができます。
しかし、新しい技術の使い方、それが具体的にどういった場面で使うと効果的なのかについて知らなければ自分の生活を楽にすることは難しいのではないでしょうか。
まして、その存在自体を知らなければ利益の受けとりようがありません。
他人まかせではなくて、結局自分が勉強しないことには新時代の新しいテクノロジーの利益は享受できないのだと思います。
この事例は大げさなように思えますが、現在の日本でも同じようなことは起こっていますし、自分でもそれは実際の業務の現場で経験しました。それは例えば「プログラミング」といったものです。
プログラミングの事例
前の項目で「パソコン?できるやつに任せておけばいい」という文章を引用しましたが、以前の自分がまさにそんな感じでした。
「プログラミング?それってプログラマーやシステムエンジニアをやるようなITの専門家が勉強するものでしょう。自分のような一般の人間がそんな難しそうなことがわかるはずがない。実際に以前コードを見たときは何かの暗号文のようにしか見えなかったし」
そう思って最初から拒否していたというか、「自分には関係のないもの」だと決めつけていました。
最初から全て諦めていたわけではなく、多少は「プログラミング」というものを気にしてはいましたし、今後は知識社会がより鮮明になっていくだろうから「いつかは多分おそろく勉強しなければいけないだろう」とは思っていました。
その「いつか」というは全くわかりませんでしたが。
「何事もやってみるもの」とはまさに言い得て妙で、今の職場でチャンスがやってきました。プログラミングの効果やそのすごさについてはこのブログでは以下の過去記事のようにいろいろと書いてきました。
引用した過去記事では、VBAやマクロを理解していた前任者の方に会えたからプログラミングのすごさがわかった、だから勉強してみよう、といったことを書いてきましたが、これは偶然なようで偶然ではないのではないかと自分では思っています。
というのは、その職場に至るまでに勉強を継続して、少しでも自分の理想に近い選択肢を選んできたからです。プログラミングの前は中小企業診断士の勉強をしてきましたが、その勉強時間を確保するために「派遣社員」という働き方を選択しました。
派遣社員という働き方を選んでいなかったら、ここまで何社もの会社を経験することは間違いなくできなかったでしょうし、その何社もの会社を経験できなければ、今の職場にも巡りあっていなかったはずだからです。
だから何事も勉強を継続して、自分が良いと思う選択肢を選び続けるということは、特にこれからの時代は非常に重要になってくると思います。
というのも今の時代は「生産性が~」とか「日本のホワイトカラーの生産性は他国と比べても著しく~」なんて言われたりしています。
これってプログラマーとかSE関係なくホワイトカラーで働く人の一人ひとりが「プログラミング」ができるようになっていかなければいけないのではないか、と思っています。
よくニュースなどで外国と日本との生産性の棒グラフの比較を見せられたりしますが、「明らかに大きな差」があります。
これだけの「大きな差」というのは、単純にタイピングを速くするとか、手作業を速くするとか、関数を工夫して使うようして埋まる差ではない気がします。
で、自分が、実際にプログラミングのすごさやその一瞬とも言えるスピードを実感した、といった過去記事を引用しました。
そして昨今の
- 裁量労働制
- 同一労働同一賃金
- 2020年からの学校でのプログラミングの授業の必修化
- 高度プロフェッショナル制度
といった流れから
生産性における「他国との明らかに大きな」差を埋めるものといったら、もう「プログラミング」ではないか、と。プログラマーとかSEとか関係なく一人ひとりが勉強する必要性が非常に高まっていると言えるのではないでしょうか。
他人任せで勉強を怠ることによって考えられる未来
別に英語とかプログラミングの話に限ったことではないのですが、周りの人を犠牲にしてひとつの世界にしがみついていられる社会というのは、そう長くは続かないのではないかということです。
いつまでも新しいテクノロジーの利用を拒否し続けることはできないでしょうし、仮に拒否しつづけるならば、非常に不利な条件で競争していかなければならなくなるでしょう。
例えて言うなら、間接的に徒歩と自動車で競争しなければいけない社会になっていってしまうのではないかと思っています。
ある国の国民の多くは新しいテクノロジーに柔軟に対応している。仕事はプログラムを組んだり人工知能に学習させたりして、本人がすることはほとんどなく、残りの時間を悠々自適に過ごしている。
そのような国が今後生まれてくるかもしれませんし、というかむしろ現在進行形でそのような時代になってきています。
そのような国があるにも関わらず、一方ではミスが出る可能性が高いとわかっているのにいまだに手作業でやらせて、ミスが出たら出たで「なぜできないんだ」と怒鳴り散らす。
手作業ということはやはり時間もかかるわけで、そうなってくると解雇規制が厳しく人件費を固定費としなければならないような国では、それが企業活動に重くのしかかってきます。
企業の製品やサービスの価格に人件費を上乗せしないと社員を養っていけないからです。そのようなやり方での外国との競争に勝てればいいですが、現実問題としてそうはなっていないわけで、じゃあどうするのか、となった場合、
「サービス残業」をさせて「時間当たりの給料を減らす」という方法をとらざる得ないわけです。なるべく自社の製品やサービスに人件費を転嫁しないで価格を上げずに競争力を維持するために。それで維持できればまだいいですが・・・。
ある国は新しいテクノロジーを受け入れることで、高い生産性で品質の高い製品やサービスを提供する一方で
もう一方の国は社員が解雇されたくないがために新しいテクノロジーを勉強せず、選択を拒否することで、時間当たりの給料を減らすために労働時間が延々と伸びていく、というか伸ばさざるを得ない・・・。
別にこれは国に限定した話ではなくて「個人」でも言えることだとも思っています。自分はよりよい選択肢を多くの人が選べるようになってほしいと願っています。
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