今も昔もそんなに変わっていないことだと思うのですが、企業とか会社という所は次のような点がよく問題視されます。
- 硬直的な組織構造
- なぜあんな人が高い地位についているのか
- 努力しても報われない
- 出世する奴はだいたい決まっている
- 仕事ができるかどうかよりも根回し()が必要
などなど数え上げたら会社の問題点というのはキリがありません。こういった問題点を解決する手段としてよく挙げられるのが、「成果主義の評価制度」にするとか「業績連動型の賃金制度」にするとか、問題点に対する解決策というのもある程度パターンは揃っています。
しかし果たしてそういった解決策が上手くいくのでしょうか。
最近のインターネット上で見る企業動向の情報とか自分が今まで実際に勤務してきた企業を見てみると、上に挙げたような方法や中小企業診断士の試験にも出てきたような一般的経営的な解決策は上手くいっていないような気がします。
最近の典型的な例では、いくつかの百貨店や衣類を販売しているような企業、テレビ業界などは大きなリストラを進めている所もあるようです。特に狙い撃ちされている年代層は40代50代です。
なぜリストラするのかと言えば、企業の売上が上がらないから社員に支払う給与を用意出来ないという面と年功序列で高い給料をもらっている40代50代の社員が社内の人員構成的に増えている、そのため販管費を圧迫しているから、といった理由が一般的です。
今は景気が悪くなる前、もしくは企業の業績が悪くないのに将来を見据えて事前にリストラする所もあるようですが、じゃあ今後もこのように企業側も労働者側も幸福にならない解決策を続けていかなければならないのでしょうか。
こういった問題点に対して最近「はっ」とさせられたことがありました。今回はそのことについて書いていってみます。
実力主義の本当の意味
最近になってからやっと、企業の働き方において「実力主義」にした方がいいとか、「同一労働同一賃金」であるとか「雇用の規制を緩和した方がいい」といった言葉をよく目にするようにしました。
他にも労働時間をもっと短くしないといけないとか労働者の待遇をよくしなければいけないとかいろいろな意見も目にするようになってきています。
少し前であれば、というか今でもよく聞きますが「仕事があるだけありがたいことだ」とか「とにかく四の五の言わず働け」「ここで通用しないんじゃどこに行っても通用しない」とか2020年も近づいている現在でさえそういった伝統的な言葉が散見されます。
こういった本人の能力を重視するという時代の流れに対して(実際は全然年功序列の風土の会社も多いのですが)肯定的な見方がされるようになってきましたが、果たしてそれは本当に良いことなのでしょうか。
「うちの会社は実力主義だ」と言われたら非の打ち所がないかのように聞こえます。自分も以前までは「実力主義の方がいい」とか「世の中が良くなっていくためには実力主義であるべきだ」と思っていました。
しかし最近読んでいたロバート・H・フランクという方の『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』という本を読んでみて、実は自分の考え方は間違っていたのではないか、と考えるようになりました。
その根拠となる文書は次のようなものです。
p.6
実力主義(メリトクラシー)は、イギリスの社会学者でのちに男爵となったマイケル・ヤングが、1958年にイギリスの教育制度を痛烈に皮肉ってつくった言葉だ。その著書『メリトクラシーの法則』(至誠堂)には、努力と能力のおかげで自分は成功したのだと成功者に思わせると、結局のところ状況は悪くなる。
さらに彼は2001年にコラムでそれを振り返りながら、実績にもとづいて仕事を与えるのは理に適っているが、「特定の功績があるとみなされた人が、他者の入り込む余地のない、新たな社会階級に定着するのは、まったく不合理だ」と記した。
そもそもメリトクラシーは、軽蔑の意味の造語だったのだ。それが褒め言葉として用いられるようになったことを、ヤングは残念に思っていたらしい。
引用した中で自分が一番重要だと思ったところは次の文です。
- 「特定の功績があるとみなされた人が、他者の入り込む余地のない、新たな社会階級に定着するのは、まったく不合理だ」
「あぁ、確かにそうだな」と思わずにはいられませんでした。
「一時の実績」で地位が決まってしまう傾向にある日本という社会
現在の日本という社会、企業の風土がまさに上記の引用したような状況ではないでしょうか。確かに実力主義という部分もあるにはあると思うのですが、現実としては「ある特定の実績だけで職位が決まって、それがずっと続いている」ように自分には見えます。
今の日本では親の経済状況によってその子どもの人生が決まってしまう傾向が強いと言われています。自分の周りを見ても確かにそれは感じます。
政治家の子どもは政治家になりやすいですし、企業の役員の子どもは、やっぱり社長になったり企業内でも良い地位についています。スポーツの世界でも親がプロ野球選手であったり、名の通った人であればやはりその子どももその道で高い地位につく傾向があると感じます。
そのような親の能力や経済状況が子どもにも継承されていき、その結果、社会階級が定着していくような現在の日本というのは、GDPとか少子高齢化という現象からもわかる通り「閉塞感」が漂っています。
「実力主義」という言葉は確かに聞こえはいいかもしれません。ですが、「一時の実績」でその後の全ての人生が決まってしまうということは問題でしょう。
自分も今までは、日本という国や企業に対して「実力主義にすればいい、そうすればほとんどの問題が解決するんだ」みたいに思っていましたが、その人の能力や実績を「時間軸で見る」という発想はありませんでした。
社会人になったらなぜ学生のように定期的な入替えがないのか
引用した文章から「特定の功績があるとみなされた人が、他者の入り込む余地のない、新たな社会階級に定着するのは、まったく不合理だ」という点が、今の日本の状況であり問題であるといったことを書きました。
ここで自分は次のように考えました。
「確かに日本の社会も企業の職位も特定の功績で決まってしまっている感じがする。それなら定期的な入替えがあればいいんじゃないか」と。
実力主義というのは決して悪いことではなくむしろ良いことだと思っています。問題なのは「一時の実績」で決まってしまうような「チャンスの少ない社会」が問題なのであって、じゃあチャンスを「増やせば」いいではないか、と。
今回引用したような知識を得ると、いろんなことが不思議に思えてきます。
- 「なんで一回課長や部長になっただけで10年も20年も同じ職位でいられるの?」
- 「なんで税理士は試験に合格してから20年30年経っても同じ資格を持てているの?」(他の士業も同様)
- 「バブル時代という時代的に恵まれていただけで良い企業に入れた人がなんで今でも同じ企業にいられるの?」
- 「営業の世界はまさに実力主義なのに、なぜ部長になった人はずっと部長でいられ続けるの?」
考えれば考えるほど不思議に感じることが出てくるようになります。
そういえばそうだな、と。なぜ一時の実績だけで人生が決まってしまうのか、本書を読むまでは全然考えたこともなかったです。結果を出せた人は偉いことは偉いと思うのですが、その結果によって得られた地位や利益が死ぬまで保持し続けられるのはおかしくはないでしょうか。
確かに今の日本には「一時の実績」だけで職位や年収が決まってしまう傾向があるのは感じます。であるならば、一時の実績だけで決まらないような社会になっていけばいいのではないか、もっと砕いた言葉で言い表すなら「定期的な入れ替え戦」をつくっていけばいいのではないかと思いました。
自分はサッカーのことは詳しくはないのですが、例えばサッカーのJリーグの世界では、「入れ替え戦」というものがあるようです。その年のJ1のチームで順位が悪かったチームとJ2で順位が良かったチームが昇格と降格を賭けて「入れ替え戦」を行うといったものです。
プロ野球の世界ではある年に三冠王など非常に高い成績を残したからといって、次の年に全く打てなかったらいつまでも4番の座にいられるわけではありません。打てない状況が続けば、段々レギュラーから外され、補欠、さらには2軍ということも普通にあります。
まぁここまで極端にすることはなくても、多くの人に「定期的な」「チャンス」を提供するというのと、今まで高い地位にいた人はその時の能力や時代背景なども考えて「検査」という意味でも「何らかの施策」があってもおかしくはないのではないかと思います。
これは「学校」という視点から見ても、会社というものが不思議に感じれるようになります。日本の学校は小学校、中学校、高校、大学とあります。厳密に見るともっと種類があるのですが、ここはわかりやすい形で見るとします。
高校や大学で入学試験があるというのは、多くの人が経験していると思いますが、今の時代は小学校や中学校に入る時点でも「入学試験」を実施している所もあります。
となると多い人では、小学校に入る前、小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学の計4回試験を受ける人も出てきます。別に4回ではなくても、高校や大学で入学試験があるので、その時の試験の結果によって入れる学校がきまる、つまり入れ替えというものが学生時代には存在します。
こういった視点において学生時代には定期的な試験による入れ替えがあるのに、なぜ社会人になってから「定期的な試験」や「定期的な入替え」がないのでしょうか。今までは全く気にも留めていなかったのですが、本書を読んでからこのことに不思議に感じるようになりました。
自分としてのこの考え方の注意点としては「ジョブローテーションではない」ということです。企業内の人事施策のひとつにジョブローテーションというものがあります。
これは、社員の能力開発や成長、職場にはどんな人間がいるのか、どんな仕事があるのかといったことを理解するために、定期的に職場の異動や職務の変更を行うというものです。
このジョブローテーションは基本的に「横の入替え」です。特に職位がまだ高くない若手を中心に行われる傾向がある施策です。自分が今回の記事で伝えたいのは横の入替えではなく「縦の入替え」です。
例えば課長や部長になっても、ある程度の時間が経つとその職位におけるその人の振る舞いというものも見えてきます。人格的に優れていて良い結果を出してくれれば全く問題はないのですが、そうではない場合に同じ職位にい続けられると周りの士気が低下、社員が定着しないという状況も起こりえます。
そんな時にずっと「縦の入替え」がないのは問題ではないか、ということです。
日本の社会のあり方を一度考え直してみるべき
「企業にもその人の仕事ぶりで評価される制度があるじゃないか」という声が聞こえてきそうです。
日本の社会において、一般的に30歳や35歳ぐらいになったらどの人が出世するかだいたい決まってくるという話を聞いたりもします。
これもよくよく考えてみるとおかしな話ではないでしょうか。時代の流れがそれほど早くなかった一昔前ならまだわかりますが、今は数年後どうなっているかもわからない世の中です。
5年前10年前では実績をあげられた人も、環境の変化が早い現在では実績をあげられないかもしれません。であるならば、5年前10年前、まして20年前に実績をあげた人が高い地位にい続けること自体おかしなことではないでしょうか。
数年前だったらまだわかりますが、20年30年前だったら環境も「価値観」も違ってくるわけで、例えば30年前であれば「モノ」を根性で売る事はそれほど難しいことではなかったのではないでしょうか。
今から30年前というと、1988年でまさにバブル時代であり、2018年という今に比べれば「モノ」を売る事はそれほど難しくなかったと思われます。
それから30年が経った現在「システムを売る」ということになったら、結果はまた違ってくるはずです。目に見える「モノ」と目に見えない「システム」を売るということを比較すれば、やはり販売方法は違ってくるでしょうし、それによってもたらされる結果や利益も違ってくるはずです。
30年前に現場で働いていた人は今はマネジメントをする立場だから関係ないと言われるかもしれませんが、日本の企業では「現場主義」とか「現場がわかっていない奴はダメだ」なんていわれたりします。
であるならば、マネジメントの立場で結果が出せない、もしくは企業の業績が悪化しているのなら、もっとその人の立場の価値を問われてもいいのではないでしょうか。
以上のことから定期的な入替え、もしくは試験でもなんでもいいのですが、実力主義とはいっても「一時の実績」でその人の地位が全て決まってしまうのではなく、「過去のルールではなく新しいルール」で「何度でもチャンスがある」社会にするにはどうすればいいかという視点で、今後の日本の社会のあり方を今一度考え直してみるべきではないか、と思うようになりました。
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