現在という時が未来に「隷従」させられている、という発想について

最近は井上智洋さんの『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)』を読んでいました。

 

最近の社会では、人工知能の発達によって人間の仕事が大幅に機械に代替されるのではないか、それによって人は賃金を得られず生活ができなくなるのではないかといった問題が叫ばれています。

 

ということで今回はそういったことについて触れるのかというと、違います。人口知能についてはまた別の記事で触れますが、本書を読んでいて非常に琴線に触れる部分があったので、その部分について思ったことを書いていってみます。

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現在という時が未来に「隷従」させられている

p.236

資本主義に覆われたこの世界に生きる人々は、有用性にとりつかれ、役に立つことばかり重宝し過ぎる傾向にあります。将来に備えて資格にための勉強をすることは言うまでもなく有用です。

 

ところが、その勉強は未来の利益のために現在を犠牲にする営みであるとも言えます。現在という時が未来に「隷従」させられているのです。有用な営みに覆われた人生は奴隷的だとバタイユは考えました。

 

役に立つが故に価値あるものは、役に立たなくなった時点で価値を失うので、その価値は独立的ではありません。会計士の資格は会計ソフトの普及で、運転免許はセルフドライビングカーの普及で、英会話能力は自動通訳機の普及で、有用ではなくなり価値を失うかもしれません。

 

現在という時が未来に「隷従」させられているのです。

「あぁ、なるほどな・・・」と思いました。

 

最近インターネットで調べ物をしたり、自己啓発的な本や、それ以外に実用的な本を読んだりしても「今を生きる」という言葉が散見されました。

 

その時はあまり意味がわかっていなかったのですが、本書の引用した部分を読んでみたことでなんとなくですが、その意味がわかってきました。

 

なぜ「今を生きろ」と言うのか。それは世間での常識というものや、人の話す会話などから知らず知らずの内に、我慢をさせられていた、現在という時を犠牲にして未来に「隷従」させられていたからでしょう。

 

もっと言えば、世間一般の価値観というのは「支配者」が奴隷を「奴隷でいさせるため」につくり出した支配構造なのかもしれないなぁと思いました。

 

「世間の常識」というのは「宗教」に近いかもしれない

本書の引用した部分を読んだ後に「世間の常識」というのは「宗教」に近いかもしれないなぁ思いました。

 

これは結構多くの方が聞いたことがあるかもしれませんが、現在の我々の世界に存在する「キリスト教」や「イスラム教」「仏教」というのは、内容の違いや程度の差こそあれ、その教義は「神様の教えに従って生きれば、死後に天国で幸せになれる」というものです。

 

その教えに従うことによって、信者達は、死後に天国へ行きたいがために、ひたすら苦しみに満ちた世界の中で、家畜のように我慢して生きるようになりました。

 

表面上は非常に綺麗に見えます。しかしこれを別の視点で見ると非常に恐ろしい光景になるのです。

 

それは、「支配者の都合の良い世界のため」に多くの人は「騙されている」もしくは「洗脳されている」のではないか、と。

 

宗教など現代の発達した文明から見れば既に時代遅れの遺物であり、今時宗教なんて信じる方がどうかしている、と仰る方もいるかもしれません。

 

はたしてそうでしょうか?

 

現在の私達が生きる世界には「我慢すればいつかは報われる」という言葉があります。また「人は見ていようで見てくれている」といった言葉もあります。

 

以前の世間知らずの自分は、そういった言葉を信じて誰にも負けないくらい頑張っていた時がありました。しかし、ある時ふと思ったのです。

 

「いつまで我慢すればいいんだ?」と。

 

「真面目に頑張っていればいつかは報われる」

えぇ、いつかは報われるかもしれません。で、それはいつなのか、と。

 

いくら馬鹿な自分でも、何年も周りの環境を観察していれば嫌でも気づくことがあります。それは「必ずしも真面目に頑張っていれば報われるというわけではない」ということに。

 

確かに現在の世界における日本という国には表面的な宗教は見られないかもしれません。ですが、その「根底にあるもの」というのは、現在の世界においても「十二分にその力を発揮している」ように感じます。

 

もっと具体的に言ってしまえば、

 

「正社員になれば安定して働く事ができる」

「真面目に働いていれば、定年後は年金で悠々自適に暮らすことが出来る」

 

本当にそんな世界が存在するのでしょうか?本当にあるかどうかもわからない世界のために、ブラック企業で長時間労働で社畜と呼ばれながらも「今」という時を「犠牲」にし続けるのでしょうか。

 

為政者の生活を支えるために、目の前に餌をぶらさげられているだけではないのでしょうか。現在の世界においても、宗教による支配者と奴隷の構造というのは十分に存在していると感じます。

もし今日が自分の人生最後の日だとしたら

アップル社の創設とiPhoneの開発で多くの人の記憶に残っているスティーブ・ジョブズが残した名言で有名なものがあります。それは

 

  • 「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要がある

 

というものです。

 

ジョブズのスタンフォード大学における卒業祝賀スピーチの3つ目の詳しい内容を知りたい方は以下のサイトを見ていただければと思います。

自分が最初にジョブズのこの言葉を知ったときは、まだ大学生だった時です。その時はまだ、「単なる倫理的な良い言葉」ぐらいにしか受け取っていなかったのですが、

 

それから約10年が経ちますが、今回の記事のタイトルの言葉に出会ったことで、ジョブズの言葉が少しずつ理解できてきた気がします。

 

正社員から派遣社員になることで、正社員の時よりかは、「現在という時を未来に隷従させている」という状態からは少しは脱却できたかもしれませんが、自分の中ではまだその傾向が残っていると感じます。

 

もし今の仕事をやらないで済むのであればやりたくないと思っていますし、もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今の仕事は放り出して別のことをしているでしょう。

 

未来の奴隷にならないために「今」という時に力を取り戻す。そのためには「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら」という考え方が必要なのかもしれません。

 

もちろん今日、明日そういったことがすぐできる、という人は多くはないはずです。ですが、人がより幸福になるためには、今までの生活を毎日少しずつ変えていった方がいいでしょうし、こういった価値観も学んでいく必要があるのではないでしょうか。

どうすれば支配の構造から脱出できるか

「今を生きろ」という言葉はちゃんと理解できたかどうかはわかりませんが、その意味は「支配者と奴隷の関係の世界から脱出しなさい」ということなのではないでしょうか。

 

具体的にどうすればこの問題を解決できるか、というのはなんとも言えませんが、ひとつ言えるのは「正しく認識」することでしょう。

 

例えば、喉が痛くて鼻水が出て、熱もあってふらふらするような状態は明らかに「風邪をひいている」という状態と言えるのですが、本人が風邪であるという状態を認識できないことには適切な処置を施すことができません。

 

周りの人がいろいろと手を差しのべようとしても、薬をもらっても、「いいえ、風邪ではありません。」といって薬を飲まずに安静にしていなかったら、風邪はなかなか治らないでしょう。

 

自分に何らかの問題が発生した場合は、まずは正しく現状を把握するというのが必要なことです。

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