現在多くの先進国では「民主主義」という社会制度を採用しています。民主主義とは簡単に言えば、その国の「国民」が主権を有する支配体制です。
民主主義といった国民が主権を有する支配体制ではデモクラシーといった言葉(democracy)が使われたりもします。
この言葉はdemos(民衆)のkratia(支配)というギリシア語が語源とされており、支配の権威が民衆に由来することを意味します。
これと並ぶ支配体制が、人類のここまでの歴史において王族が主権を有する君主政治や貴族政治といった支配体制がありました。
個人個人が今後の社会で生きていくことに関して、「民主主義」という視点から考えたことを書いていってみます。
民主主義へ移行する前の歴史
今回の記事のテーマから民主主義という社会体制の歴史について簡単に触れておきます。
民主主義という社会体制は人類が誕生してからすぐにできたものではありません。民衆が政治上の権利を獲得するまでには、それはそれは多くの時間と血が必要でした。
民主主義という社会体制に至るまでの歴史というのは要するに王族や貴族に集中していた権利を、例えばレジスタンスや戦争、革命といった多くの人たちの行動を通じて一般の民衆が獲得したという歴史上の流れがあります。
例えば18世紀後半にフランス革命が起こりまます。1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に騒乱が発生、第三身分(平民)らによる国民議会(憲法制定国民議会)が発足し、革命の進展とともに絶対王政と封建制度は崩壊しました。
この出来事の背景には当時のフランスの「階級制度」、戦争をするために平民に重税を課した「経済危機」、それと旧体制を打破するための精神となった「啓蒙思想」があったと言われています。
同じような時期にイギリスでもアメリカでも古い社会体制から現在の民主主義に至る流れがありました。
ここでは深くは触れませんが、民主主義というのは、歴史上ただなんとなく発生したものではなく、多くの人の努力や血の上に成り立っているわけです。
第3の選択肢
このブログでは何度か堺屋太一さんの『知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる』について触れています。
ここまでで書いてきた「民主主義」というものに対して、堺屋太一さんは投票民主主義(デモクラシー)から需要民主主義(デマンドクラシー)へ転換していく必要性について本書で述べています。
現在の社会で問題になっているのは、王族や貴族から取り上げた権利というのは、「一般の民衆」という多くの人間の「集団」であって、それは必ずしも「個人」というわけではないのではないか、という点が挙げられています。
というのは、本書において堺屋さんは、日本が今後の知価社会へ移行するためには「3つの選択肢」について以下のように述べています。
- 一つ目は「知価革命」を大胆に進め、新しい社会への転換を促進するような政策を採ること
- 二つ目はあくまでも工業社会の維持に努め「知価革命」を抑制すること
- 三つ目は、この点に関して政策的な介入をなるべく避けること
本書では1つ目の選択肢において、「前提条件が整っていない」というのと2つ目の選択肢において将来的に上手くいかないか、他の国に社会的に置いていかれるだろうということで否定的な見方をしています。
よって、残るのは3つめの選択肢しかないことになります。本書では3つ目の選択肢において、政治的・政策的介入を少なくし小さな政府を実現、それによって今までの既得権益層で、世代人口も多い中高年の影響が強く出る「投票民主主義」を弱め、
人々の欲するものへの需要行動、今現在本当に必要とされているものに対応できる「需要民主主義」への影響を強めて拡大していく必要があると書かれています。
需要民主主義というものについて
本書では需要民主主義というものについて次のように書かれています。
p.306
「知価社会」は、物財の生産よりも智恵の値打の創造が重視される社会である。
(中略)
ここでは規格大量生産よりも多種少量生産が一般化するし、技術やデザインが次々と変化する。従って、常に多くの個性的な知的創造活動が必要になる。つまり、集団的な協働性よりも個性的な着想が、組織的な根回しよりも勇敢な決断が要求されるわけだ。
こうした条件のもとでは、何年かに一度の投票によってのみ意思表示する「投票民主主義」は、その未来の理想を実現することは難しい。
いきおい、それぞれの人が最も強い関心を持つ問題によって投票対象を決定する。そしてそうした問題は、大抵需要側よりも供給側にある。つまり「投票民主主義」は供給者集団の利益代弁者の集合体となり易いのである。こうしたことは、変化の激しい「知価社会」とは鋭く対立するといえる。
これに対して「デマンドクラシー」は供給者としての人間よりも需要者としての人間に着目する。それ故に社会主観に基づく変化に常に対応して行けるはずである。
これは、今日までの日本社会の発想とは、ある面で対立する。
みんなが正しいとすることを正義とする相対的正義感の支配する所では、少数意見が出し難く、独創的な個性は育ち難い。流動性の高い社会主観の中では技術もデザインも寿命が短く、日本人が得意としてきた外来技術の習得も、間に合わないほどになるかもしれない
最初読んだ時はちょっと難しく感じたのですが、要は以下のようなことを言っているのかなと思いました。
- 投票民主主義(デモクラシー) → 多数決、多数派の政治
- 需要民主主義(デマンドクラシー) → 少数派、少数派や個人による政治
(※ここでの「デマンドクラシー」という言葉は辞書には存在せず、筆者の造語と思われます。そのため本書の内容や文脈から意味を類推しました。)
日本には「長い物には巻かれろ」といった言葉があります。その意味は、力のある者には従ったほうがいろいろと得策だし楽だから、といったものです。
今の時代は、「長い物には巻かれろ」という言葉があるように少数派や個人が多数派の人たちとか権威がある人たちに対してなかなかものが言えない環境にあると思います。
民主主義というのは、例えば日本では投票という行為を通じて各地域の代表者を選出、その代表者の話し合いによってこの国の政策を決めるという間接民主制をとっています。
この方式の思想的な背景、特に日本人は「政府に依存している」と本書では書かれています。「長い物には巻かれろ」という言葉や尊敬語や謙譲語とか外国に比べてやたら目上の人や形式を大事にする日本語という言葉からも、
日本人のアイデンティティにあるその思想の背景として、なんとなく権威におもねる傾向というか依存的なものがある気がします。
個人や少数派を重視する需要民主主義について
多くの人は気づいていないでしょうが、この「政府に依存する」という心理が逆に自分達を縛っているんです。というのも、本書ではこのような心理や体制が、
自由な発想と新しい技術の導入を妨げ、遅延させる危険な思想であるとされ、政府が定める規則や基準は、どんなに運用を弾力化しても、所詮は安全第一の全国一律方式にならざるを得ないと書かれています。
確かにそうです。例えば日本の雇用がその典型的な例でしょう。雇用というものを国や企業に国民が丸投げするからこそ「整理解雇の四要件」なんてものがつくられて、今なおその制度が残っているんです。
この「整理解雇の四要件」というのは、企業がそこで働いている人を辞めさせる場合、過去の労働判例から確立された以下の4つの要件が充たされていなければいけないというものです。
- 人員整理の必要性
- 解雇回避努力義務の履行
- 被解雇者選定の合理性
- 解雇手続の妥当性
この法律がつくられた当時の社会情勢にとっては妥当なものだったかもしれないですが、逆にこのような法律が国民の生活や社会の成長を阻んでいます。
この制度がいまだになくせないのは、日本国民の思想の背景に依存的なものがあるからでしょう。
要は正社員として、特に大企業に入れれば将来安泰みたいな考えがかなりあると思われます。それは特にひとりひとりの行動を見れば明らかです。
例えばいまだに飲みニケーションと称してお酒を部下と一緒に飲むことが重要だと思っている人間がたくさんいます。自分の考えとしては、そんな暇があるんだったら、会社が終わったら今後の社会で自立して働けるように図書館にでも行って勉強するという方法もあると思うんです。
このことについては以下の過去記事を参照していただければと思います。
しかし、部下に「今日は飲みに行くぞ」という上司はたくさん見てきましたけど「今日は図書館に行くぞ」という上司は一度も見たことがないです。
通勤する時の電車の中を見てもわかります。本を読んでる人は本当に少数です。後はみんな寝ているかスマホでゲームをしているかという感じです。このことについては以下の過去記事を参照していただければと思います。
要は自分が何か努力をしなくても、政府や企業が助けてくれるだろうという依存的な考えがあると思われます。こういった人がいるからこそ「整理解雇の四要件」といったもので正社員を守らなければいけないわけです。
みんながみんなが不断に努力していて、ほとんどの国民が何らかの理由で解雇されたとしてもすぐに別の場所で働けるように準備している、というのであれば特に問題はないでしょう。
しかし、個人個人がそういった不断の努力を放棄して遊んでいる以上は縛らないといけません。
このような状態で「政府が悪い」とか「雇用の流動性が」と言ってもあまり意味がありません。なぜならそのような環境をつくってしまっているのは、今まで努力を放棄してきた国民なわけですから。
だから本書に書いてあるように、国民が政府に依存する以上は政府もいろいろと文句を言われたくないのでどうしても保守的な法律内容にならざるを得ないのです。
民主主義という社会体制の下では、多数派の人たちの意見が反映されるわけですが、ここまで書いてきたように、政府に依存的な多数派の人たちの意見が必ずしも正しいというわけではないのです。
というのも、本書の言葉を引用してきたようにこれから迎えるであろう知価社会では、需要民主主義という少数派の独創的な個性を持った人間の能力が必要とされると考えられるからです。
ではどうすればいいのでしょうか、これまでの民主主義に至る歴史から考えるに、かつて王族や貴族が階級制度や経済危機によって多くの民衆を苦しめました。
今の時代で例えるなら、世代人口が多い中高年層が正社員という身分制度を通じて既得権益を独占し、中高年層の老後の生活のために莫大な社会保障費を下の世代から吸い上げて苦しめている状態と言えます。
その王族や貴族が独占していた権利が多くの一般民衆の力によって移行したように、これからの時代は少数派の人間や個人が多数派の一般民衆から、何らかの手段によって「権利」を取り戻さないといけない時代になっていくのかもしれないですね。
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