読書をしないと虚無感や焦燥感、恐怖感が募っていく

以前から考えていたことがありました。「もし、あの時から本を読んでいなかったら今はどうなっていただろうか」と。というのは、人間一人の人生を今までの世界から別の世界に分岐させるのに非常に重要なものではないかと思うからです。

 

このことは以前から何度も自分なりに考えたり、シミュレーションしたりしていました。「もし大学時代にあの本に巡りあわなかったら、今頃新卒で入った飲食業の会社で将来に絶望しながら仕事をしていたかもしれないなぁ」とか

 

「もし本を読む習慣がなかったら、今でも恐怖感で嫌々ながらも上司に諂って仕事をしていたかもしれないぁ」とか

 

「もし本を読む習慣がなかったら、今頃『人間』として生き方を放棄せざるを得なかったかもしれないなぁ」

 

と考えたりもします。

 

今回の記事のタイトルは『「読書をしない世界」と「読書をする世界」との違い』ですが、今回はこのことについて以前から考えていたことを書いていってみます。

読書をする習慣のなかった時の感覚

抽象的な光

自分も小さい時から読書をする習慣があった訳ではありません。以前はそもそも「本を一冊読む」ということですら「すごいこと」だと思っていました。

 

また「本を読む人」というのは、自分とは住む世界が違う人がすることみたいなイメージもありました。

 

そう、今だからわかるのですが、本を読む習慣がなかった時というのは世の中を「感覚」とか「イメージ」で捉えてしまっていたんです。

 

そのため、世の中の事象の背後に何があるのか、なぜそういったことが表に出てくるのか、といった「根拠」とか「論理」を軸として世の中を見るなんてことには全く考えが及びませんでした。

 

ですから、そのような時というのは「虚無感」とか「焦燥感」、なんとなくの漠然とした「恐怖感」に囚われ易くなります。そうなると、

 

「こうしないと生きていけない」とか「世の中はみんなこうしてるから自分もそうしないと」というように

 

自分なりの考えとか根拠とかではなくて、周りの人がどうしているのかといったことや、テレビではこう言っているから、周りの人はこう言っているから、といった基準で行動せざるえなくなっていきます。

 

なぜなら自分なりの判断基準がないんで、周りの人や周りの意見についていかざる得ない。怖いですからね。

 

人間は知らないことに対してはどうしても恐怖感を持ってしまいます。生物としての生存本能なのでしょうが、これがどうしても自分を縛っていくんです。

 

今だからわかるんですが、あの感覚は本当に嫌ですね。なんというか漠然とした寂しさとか、将来に対するなんとはなしの暗い感じというか、思い出したくありません。

ますます募っていく虚無感や焦燥感、恐怖感

ここまで読書をしなかった時の感覚として虚無感や焦燥感、恐怖感があったということを書きました。

 

これが長い時間続くとどうなるかというと、段々と「未来に希望が持てなくなってくる」と自分は感じています。もっと言えば絶望感に繋がってくると言い換えることもできるかもしれません。

 

というのは読書をする習慣がなかった時というのは、何か問題があっても「ただ我慢する」しかなかったからです。

 

もちろん「人に聞く」っていう方法もあるんですが、聞くにしても自分が探している答えを知っていそうな「人」をまず探し出す必要があります。

 

身近な存在として「父」や「母」がいますが、親が何から何まで知っているわけではありません。

 

学校の先生という選択肢もあるかもしれませんが、子供にとっては親とは違う世界の大人であり、気軽に話しかけられる存在ではありません。

 

また「聞き方」というのもあるのではないでしょうか。自分が知りたい答えを聞き出そうとしても聞き方が間違ってしまっていたら、自分が欲しい答えを得られないかもしれません。

 

このように何かの答えを探している時に、本を読む以外に「人に聞く」としてもいくつかの障害があるわけです。

 

本を読む習慣がないわけですから、答えを探し出す選択肢ももちろん限られてしまうわけで、ある程度頑張ってみても答えを得られなかったら「我慢する」しかなくなってくるわけです。

 

そうなってくると人間というのは段々と良くないことを考え出します。

 

「もしかしたら将来は自分の人生は良くならないんじゃないか」とか

「もしかしたらこのまま一生不幸なままなのでは?」

「もしかしたら・・・」

 

あまり書きたくないので書きませんが、自分なりの答えを探し出せないと少しずつ精神をやられていきます。

読書をするようになってから

読書をするようになってから何が変わったかというと、「未来に希望が持てるようになった」ことかな、と思います。

 

完全に「これだ!」っていう答えをはっきりとは出せるわけではないのですが、自分の感覚としては「未来に希望が持てるようになった」ことだと感じています。

 

どうして未来に希望が持てるようになったのか。それは百発百中とかピンポイントというわけではないですが、四苦八苦しながらでも時間がかかっても、自力で「自分が欲しい答えを得られるようになったから」

 

そのことによって、自分の進みたい方向に少しずつでも進めるようになったから、自分の人生をちょっとずつでもコントロールできるようになったから、ではないかと思います。

 

本を読むことで自分なりの判断基準を持てるようになります。そうなると、世間では正しいと言われていることでも、自分の中の判断基準に合わなければ別の選択肢を選ぶことも可能になっていきます。

 

本を読む習慣がない時に、周りの雰囲気に流されて選んだ選択肢というのは自分の判断基準がないわけですから、それがいかに良さそうに見えてもなんとなくの不安を伴います。

 

自分の中に確固とした判断基準があれば、仮に世間的には良くないものだとしてもある程度の自信を持って行動できます。

 

仮にそれで失敗したとしても、「あの時はこういった基準で選んで失敗したから次はこうしてみようか」といった建設的な考え方もできます。

 

トライ&エラーでどんどん良くしていくことができます。

 

ここまで書いてきたように、読書をする習慣がなかった時というのは、「ただ我慢する」しかなかったわけです。

 

そうなってくると、未来に希望を持てなくなり、心も荒んできます。そのような状態は自分に判断基準がないですから周りの雰囲気に流されやすくなります。

 

そういった基準で行動した結果というのはだいたい碌なものでないので、ますます心が荒んでいきます。本を読む習慣がなければ「なぜそうなったのか」といった理由を考えたり検証したりすることもありません。

 

すると、また「感覚」という以前と同じ基準で行動せざるを得ないので結果も同じようなものが出てきます。そうなってくると負のスパイラルになっていくわけです。

まとめ

このブログでは以下のような過去記事を書いています。

過去記事では今後の社会というのは、農業社会、工業社会、情報社会、知識社会へ移っていきますよと、そういった世の中では知識の「自給自足」が必要になってくるかもしれない、といったことを書きました。

 

自分で記事を書いていてなんですが、今この記事を書いていて過去の記事の意味がわかってきたというか、新たな視点で見られるようになってきた気がします。

 

知識の自給自足がなぜ大切なのか、それは今後の知識社会でよりよく生きていくためには「知識」というものが重要な意味を持ってくるというのはなんとなく予想できます。

 

それもあるのですが、人間が人間として幸福に生きていくためには、何かに依存することなく、ある程度自分で未来を切り開ける力を持てることが大切なのではないでしょうか。

 

それは「知識」というものであり、今後の社会ではそれがさらに重要になってくると。

 

う~む。今回みたいな感覚は初めてです。自分で日々記事を書くことで、過去に書いた記事に対して新たな視点で見られるようになる。

 

うん。ブログとか知識とか本を読むというのは奥深いものだなぁと今回考えさせられた記事でもありました。

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