お疲れ様です。2017年も残りわずかとなりました。他の方はどうお過ごしでしょうか。自分は2日前仕事納めとなりまして、待望の年末年始休暇に入れます。
しばらくは会社に行かずに休むことができるので、今は楽な気持ちでこの文章を書くことが出来ています。
時間が経つのはあっという間です。年齢を重ねるたびにそれを強く実感しています。特に2017年はあっという間でした。まぁ毎年同じ事を言ってしまっているかもしれませんが、自分の場合は2016年の終わり頃に中小企業診断士の2次試験の2回目の結果発表がありました。
そこから落胆した気持ちになって、さぁこれからどうしようかということでしたが、正直診断士の試験範囲をもう一度やり直すという気持ちにはとてもなれませんでした。
そういったことから、この1年どのように自分の心が変化していったのか、ということについて今回は書いていってみます。
経理として普通は簿記1級を勉強するべきではあるが・・・
2016年の終わりぐらいに中小企業診断士の2回目の試験にも落ちてしまった、ということはこのブログで過去に書いてきました。
じゃあその後どうするかということですが、自分は経理として今まで働いてきたので、「簿記1級」をやるべきだろうという結論に達しました。
しかし自分の中での心のもやもやというか、いろいろ葛藤っていう程でもないのですが、いまいちモチベーションが上がりません。
というのも簿記を勉強をするということは、経理の仕事をするということで、今までの延長線の域を出ないというか、それって結局は会社勤めを続けるということだよなぁ、と。
それに簿記というのは、会社のお金の流れを「記録する技術」なのです。ですからお金の流れを既存の枠組みにいかに正確に当てはめていけるか、という性質と「過去」という性質があるんですよね。
経営という分野が将来という「未来」を見据えて、どこにお金を投資するかを決められる仕事だとすれば(この分野の仕事をしたいからこそ中小企業診断士の勉強をしていました)、経理はそのために、「過去」のお金の流れを記録して将来に活かす、みたいなイメージです。
まぁ要は経理という仕事がつまらなくなってきた、と言えるのかもしれません。経理の仕事の基本的な仕事の性質は、だいたい過去のお金の流れの記録であり、それが正確になされているかの「チェック」です。
経理の仕事が全部が全部そうだとは言いません。予算編成、予算管理などはかなり未来を見据えて会社の利益を最大化するために、どこにお金という資源を効率的に配分するかといった仕事になります。
しかし、それも「何か新しいものを創り出す」っていう感じじゃないですよね。既存の枠組みにかなり縛られるというか、そもそも予算の計画を立てるなんて会社の上層部のごく一部の人間にしかできません。
そういった仕事はある程度その会社で長く続けてきた人とか、職位が高い人、非常に知識、能力が高い人に限られてきます。自分のような下っ端の人間がそこまでたどり着くにはかなり難しいでしょう。
簿記1級の勉強を始めるにあたって、そういったもやもやした気持ちがあり、「この努力は本当に実を結ぶのだろうか」「仮に簿記1級が取れたとしてじゃあその先は?」という考えがどんどん大きくなっていきました。
ExcelのVBAというものに出会ってから
直近の会社に入ってから数ヶ月が経ちますが、そこでエクセルのマクロやVBAを巧みに使う人がいらっしゃいました。そのスピードや正確性、有益性に非常に驚かされた、といったことを過去に書いてきました。
エクセルのマクロやVBAに出会ったからこそわかるのですが、簿記というものは単純に人間が「覚える」という領域を出ない気がします。より高度な仕事をできるようにするためには、ある程度はその道の知識は必要です。
しかし経理というのは新しい何かを創るという仕事ではありません。例えば個人で新しい勘定科目をつくってしまうとか、新しい会計ルールをつくってしまうとか、何か大きく仕事内容を変えてしまうとか、何か新しい仕組みをつくってしまうとか、そういったことは許されません。
「創造的な仕事」とはこういったものなのだろうか
一方、エクセルのマクロやVBAは「何か新しいものを創る」仕事だと感じます。最初にプログラミング言語とか変数とか関数、ステートメント、構文といったものを覚える必要はあります。
ですが、それらとアイデアを使って、仕事を効率化できるようなプログラムとかシステムを創るという仕事ができます。これは実際に自分で試して経験しました。
まだ初歩的な知識しか学んでいませんが、実際に自分が関数やフリーソフトを組み合わせたり、プログラムを組むことで仕事が今までとは全く違う姿を見せてくれたのです。そりゃあ嫌でも見る目が変わるというものです。
「創造的な仕事」という言葉がありますが、以前まではこういった仕事は会社の上層部のごく一部の人たちしかできないもの、といったイメージがありました。先に書いた予算編成みたいな。
しかし、プログラミングはパソコン一台あれば誰でも出来ます。特に今の時代は昔と違ってパソコンの価格は劇的に下がっており、例えばアマゾンで中古で1万円前後で買えてしまう時代です。
この「誰でも使える」というのが平等でいいですよね。自分も大人になって社会人として何年も働くようになって社会の仕組みとか目に見えないルールみたいなものも何となくわかってはきました。
例えばプロ野球選手とか、大学時代に税理士とか公認会計士の資格を取れてしまう人とか、優秀な研究者とか、ああいう人たちってかなり親の能力とか経済力が影響してますよね。そういった人たちの親はだいたい優秀ってことです。
例えば親が酒やパチンコに溺れてしまうような人の子どもが、大学時代に税理士の資格を取れるかといったら疑問でしょう。できないとは言いませんけど、全体の中ではかなり少数派になると思われます。
それにそういった昔からある職種の仕事ってもうかなり固定化されています。このブログでも書いたのですが、税理士の資格を持っている人のかなりの割合の人が高齢者のようです。人数的、労働市場的にも飽和状態であり、少ない顧客を何人もの税理士が奪い合っている状況です。
そういった優秀な親の子弟たちによって独占されて、固定化された世界と比べると「プログラミング」という世界は、新しい分野であり参入者がまだ多くはありません。
またパソコン一台あればできるので、親の経済力に依存する割合はかなり少ないでしょう。公認会計士の試験のように人間が大量の知識を覚えなければならないというものでもありません。このブログの過去記事でもいろいろと書いてきましたが、パソコンが知識や動作を覚えてくれるからです。
ですからプログラミングをする人に重要なのは「アイデア」ではないかと思っています。
宗教は諦めて「それが真理なんだ」と受け入れること。哲学は真理を求めて「歩き続ける」こと。
自分が見つけたVBAというプログラミングの世界は新しいものです。その世界は親の経済力にそれほど依存せず、プロ野球選手とか会計士、税理士、その他歴史のある職種の人たちに比べれば、プログラミングの世界は独占されているわけでもなくまだ固定化もされていません。
チャンスは平等にあり、流動的で、本人の生まれつきの体力とか頭のよさにそれほど左右されない世界・・・だと今の自分は思っています。
そんな世界が来るのは数百年後くらい、少なくとも自分が生きている間はそういった理想的な世界を見られる日はないだろうと思っていました。
ある所にはあるものですね。理想を求めて信じて努力し続けてきたからこそこうった世界にたどり着けたのかもしれません。
少し前に『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』という本が話題となりました。その続編である『幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII』には次のような印象的な文章が書かれています。
p.30
青年 わかります。人間の「心」にまで踏み込んでいくのが哲学であり、宗教である、と。それで両者の相違点、境界線はどこにあるのですか?やはり「神がいるのか、いないのか」という、その一点ですか?
哲人 いえ。最大の相違点は「物語」の有無でしょう。宗教は物語によって世界を説明する。言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。それに対して哲学は、物語を退ける。主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。
青年 ……哲学は物語を退ける?
哲人 あるいは、こんなふうに考えてください。真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる竿の上を歩いている。この常識を疑い、自問と自答をくり返し、どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすら歩いている。するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。
青年 ほう。
そしてある人は、内なる声に従って歩むことをやめてしまう。竿から飛び降りてしまう。そこに真理があるのか?私にはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ歩みを止めて竿の途中で飛び降りることをわたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは関係ありません。
良い言葉じゃないですか?自分がこの本の中の一番好きな言葉の中のひとつです。
- 宗教は諦めて「それが真理なんだ」と受け入れること。
- 哲学は真理を求めて「歩き続ける」こと。
多くの人は世間の常識として「これ以上先に進んでもなにもない。これが真理だ」という周りからの言葉に惑わされて、諦めてしまっていないでしょうか?
多くの人は会社に入ったらそこで定年まで働き続けないといけないと思っているでしょう。でもいいんですかね?そんな人生で。
飲み屋で同僚と会社や上司の愚痴を言って、いつ首にされるかどうかわからないとビクビクしながら仕事をして、首にされたくないからと忠誠心を見せるために嫌なこともたくさん我慢して、そんなことを40年近く続けるって、それって「生きてる」って言えるんでしょうか?
上司が良い人で、会社も本当に定年まで雇ってくれる、仕事もやりやすい、というのであればいくらでも頭をさげていいと思います。でも現在の多くの会社ってそうではないと思うんですよね。
もし現在の世界の他にもうひとつの世界があるのなら、本意ではないのに悪者の片棒を担いで、他人の人生を生きて、悪者が勝ってばかりいる世界を見るぐらいなら、移ってしまってもいいんじゃないでしょうか。
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