豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った理由は組織面から機能体組織を進めすぎたため

今回の記事は以下の前回の過去記事の続きとなります。

前回は堺屋太一さんの『組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか』から組織には大きく分けると、「共同体組織」と「機能体組織」というものがあるといったことを書きました。

 

今回はそのような組織について具体的にどういったものがあるのか、歴史上存在した組織の事例を書いていきます。

 

本書にはその事例として、大きく次の三つのケース・スタディーが書かれています。

  • 豊臣家━人事圧力シンドロームと成功体験の失敗
  • 帝国陸海軍━共同体化で滅亡した機能組織
  • 日本石炭産業━「環境への過剰適応」で消滅した巨大産業

これら三つの事例における組織がなぜ繁栄したのか、そしてなぜ衰退、そして消滅していったのかという点について非常にわかりやすく書かれています。

 

「なるほど、そういった視点で過去の事例を見るのか・・・」と思わず唸らされました

 

今回はこれらの事例について思ったことを書いていってみます。

一定の集団を「組織面」から見るという発想について

本書の目次を最初に見たとき、思わず「えっ!?」と驚いてしまいました。というのは、過去の歴史上の人物やある特定の集団を「組織面」から見るという発想が今までの自分にはなかったからです。

 

組織というと、例えば現在の我々が生きる時代では会社の「社長」とか「部長」「課長」といった組織図が多くの人は最初に思い浮かぶでしょう。

 

戦前の日本の旧帝国陸海軍などでは、「大将」とか「大佐」「少尉」といった階級を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

 

戦国時代の組織と言うと、大名や侍大将とか足軽、目付とか家老といった身分を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

 

かくいう自分がまさにそのようなイメージを持っていたので、本書を読む前まではそういった人たちのエピソードが書かれているのかなぁと思っていました。

 

しかし期待は良い意味で大きく裏切られて、ここまで書いてきたような特定の身分の人に焦点を合わせるのではなく、もっと奥深いというか、「そういった見方があったか」と感心させられる内容でした。

 

今回はそのうちのひとつ、豊臣家の事例について気づいたこと書いていきます。

戦国時代における機能体組織

豊臣家の事例というのは日本における戦国時代のあの豊臣秀吉の立身出世を通した組織に関する事例です。

 

戦国時代における天下統一は現在の歴史の教科書では、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の手に渡り成し遂げられたと書かれています。それを組織面から論じたのが本書です。(※組織面から見た事例はもちろん他にも書かれています。)

 

なぜこの人物達が天下統一を成し遂げられたのか、それはまず織田信長が他の戦国大名に先駆けて典型的な「機能体組織」をつくりあげることができたからです。

織田信長が確立した機能体組織

そもそもなぜ織田信長が機能体組織をつくりあげることができたのか、当時の他の大名はどうだったのか、という点についても比較しながら書かれているのが本書の面白さでもありました。その点について本書では次のように書かれています。

p.119

少年時代に珍奇な服装で馬を駆っていたというのは、それが便利だったからだ。父・信秀の葬儀で香を投げつける不作法を犯したのは、彼の悲しみの表現に適していたからだ。

 

室町礼法を否定したのも、鉄砲を採用したのも、機能主義的発想である。つまり信長は、ここで述べた機能組織の理想をことごとくやってのけたわけだ。少なくとも、それ以前の武士社会から見ると、飛躍的に機能化したと言える。

戦国時代というのは多くの日本人が好きな時代のひとつであり、この時代だけでたくさんのゲームも出ているほどです。その中でも織田信長は有名ですね。

 

彼の性格は豪放磊落なイメージがあり、一般的にはそのカリスマ性からいくつもの合戦に勝てたのだと言われています。

 

しかしそうではなく、彼のそのエピソードや性格は機能主義的発想によるものであると本書では書かれています。

 

階級とか家柄とか先祖伝来の血縁関係ではなく、機能や人の能力の方を重要視していていたというわけですね。さらに次の文章から、織田信長がなぜここまで勝つことができたのかについて納得させてくれます。

p.119

信長以前の武士の組織は、室町体制での一揆、つまり地域別地主共同体だった。だからここでは、一揆のメンバー(構成員)である国人とか地侍とかいわれる小地主(豪族)たちの地位と利益を守ることが優先され、戦に勝つ機能強化はそのための手段だった。

 

名門・古株が首脳となり「みんなですべてを決める」式の評定をしていた。今川義元や武田信玄などが強力なリーダーシップを発揮したといっても、武士共同体の指導者としての個人的な能力を発揮したに過ぎない。

 

ところが織田信長は、この共同体的組織原理を否定し、「天下布武」(天下は武士が一元的に支配する体制)の達成を目的とした機能体を創り上げた。

 

まず第一に「銭で雇う兵」(雇用隊)を作り、のちの豊臣秀吉や滝川一益などの流れ者に指揮させた。これまでの武士共同体の構成員ではない者を機能本位で導入し、戦専業の専業軍人集団を創る形での「兵農分離」を進めたのである。

確かに言われてみればそうだなと感じました。江戸時代のイメージが強いからでしょうか、昔は「士農工商」という言葉があるように、職業ごとに身分が固定されていた時代がありました。

 

「士農工商」という身分制度は江戸時代から強化されたと言われており、戦国時代とか室町時代からはじまったものではありませんが、確かにそういった時代は「身分」というものに非常にうるさかったというか、重視されていた時代というのはなんとなくイメージはできます。

 

ですからちょっと考えれば、最初は「猿」と言われていたどこの誰かといのもはっきりしない秀吉という人物を雇うというのは当時としては異例だったのかもしれません。

 

まして何万人もの人間を指揮させるような地位を与えるというのは、おそらく当時の一般常識からすればありえないことだったのではないでしょうか。

 

学校の歴史の教科書にも出てくるように、平安時代には「関白」とか「太政大臣」「摂政」といった言葉よく出てきました。

 

また平安、室町、江戸時代というのは血縁関係とか家督が重視されて、そういったエピソードも教科書でよく目にしていました。

 

ですから、そのような時代に今でこそ歴史の教科書では有名になりましたが、当時は流れ者だった豊臣秀吉や滝川一益に自分の軍の一部を指揮させるというのは当時としては本当に画期的なことだったでしょう。

 

家柄や出自ではなく、人の能力や機能を重視していた信長だったからこそできたことと言えるのではないでしょうか。

 

とはいえ戦国時代といえども、「身分」が重視される時代に変わりはなかったわけで、そのため信長に仕えていた旧来の武将達からは猛反発があったようです。

 

さらには鉄砲隊導入のエピソードも面白い。戦国時代の信長の鉄砲隊というと、天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城をめぐって織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼の軍勢が戦った合戦として長篠の戦いが有名です。

 

一般的なイメージとしては、織田信長が武田軍に先駆けて当時最新鋭の兵器である「鉄砲」を導入、運用したから勝てたと思われていますが、「なぜ導入できたのか」について論じたれた文献というのは少ないのではないでしょうか。

 

日本人は新しもの好きだから、むしろ最初から積極的に導入しようとしたのだろうという意見もあるかもしれませんが、本書では次のように書かれています。

p.122

とんでもない話だ。信長の時代にも鉄砲が有力な兵器であることは、どの大名も知っていた。これを大量使用して成果を上げたのは、織田信長の敵、本願寺の雑賀衆の方が先だった。

 

毛利家文書では、既に桶狭間の合戦(永禄三年)以前から鉄砲傷が激増、鉄砲の有用性が示されている。それにもかかわらず、信長以外の大名が鉄砲を大量かつ組織的に利用できなかったのは、武士共同体という組織原理から抜け出せなかったからだ。

 

鉄砲を大量かつ組織的に使用するためには、先祖伝来の部門を誇る「馬上の名士」を後方に退け、鉄砲足軽を集めた大組織を作らなければならない。

 

各村落を支配する豪族が、その村の衆を率いて戦場に来る武士共同体では、そんなことはできない。信長は「銭で雇う兵」を大量に組織し、滝川一益や木下藤吉郎らに指揮させる新組織を作り上げていたので、これができたのである。

なるほど、今の時代に生きる自分のような一般人のイメージでは鉄砲導入は抵抗があったどころかむしろ積極的に導入されたイメージがありました。

 

ですが、現実としては大きな抵抗があった、それは組織内にいた旧来の武士や豪族であったと。

 

今の時代で考えてもこれは十分理解できます。特に現在の中高年や企業の年功序列制度が典型でしょう。なぜどんどん新しいシステムに移行していかないのか。

 

なぜ生産性を重視しないで、旧態依然とした長時間労働に拘るのか。なぜ雇用を流動化させて外部から優秀な人材を入れようとしないのか。

 

「自分達の地位が脅かされる」と本人達が理解しているからではないでしょうか。ですが短期的にはその地位は維持できるかもしれませんが、長期的には難しいかもしれません。

機能体組織の行き着く先

織田信長は当時としては異例な機能体組織を確立したといったことをここまで書いてきました。それによって旧態依然とした共同体組織を打ち破ることができた、と。

 

しかしこの機能体組織も進めすぎると良くないことが本書では様々な事例を交えて書かれています。

 

当時の信長は機能体組織を進めていくつもの合戦に勝利してきましたが、それを徹底しすぎた結果、その体質に耐え切れない者も少なくなかったようです。それは歴史の教科書では本能寺の変として書かれていることでも有名です。

 

織田信長からその地位をを受け継いだ豊臣秀吉の代における成長を志向する機能体組織は、「日本」という国の壁にぶつかってしまいました。

 

戦国時代は功を立てた将兵は大名から「土地」を賜るのが慣例でしたが天下統一後は当時の将兵に与える土地がなくなってしまいました。その場合どうすればよいか。

 

当時はここで外国に攻め込むんでそこで獲得した土地を与えるべきか、それとも将兵に与える褒美を土地ではなく、商業政策による「貨幣」へ転換すべきかいくつかの選択肢は考えられていたようです。

 

ですが、当時の戦国武将にとって商業政策は畑違いであり、価値が土地から貨幣に移る事は、「武」によってそれまで功を立てていた武将達にとっては「権威の失墜」を意味するものでした。そのためここでも猛反発があったようです。

 

この後、現在の学校の歴史の教科書にあるように当時の朝鮮に攻めた文禄・慶長の役が行われました。歴史の結果からもわかるように失敗してしまい、これに伴い豊臣家の衰退を招きます。

 

この事例からわかるように機能体組織の成長志向が進みすぎると、いずれ壁にぶつかってしまうとうことです。

 

仮に朝鮮へ攻め込んで成功し、さらに世界を統一できたとしてもいずれ行き詰ってしまっていたでしょう。というのも、土地や陸地には限りがあり、功を立てた武将への褒美としてもいずれ出せなくなるからです。

 

豊臣秀吉にとってこのことに対して大きな葛藤がありました。部下に与える褒美はどうすればよいか。

 

また、それまで成長志向で生きてきた部下としての大名や武将達にとっても今までの延長線上でで将来も土地や家禄をもらえるだろうという期待がありましたし、それを前提で家臣団を抱えてしまっていました。

 

このような人事圧力があり、部下に新たな褒美を与えるために、やむなく朝鮮出兵に踏み切ったというのが組織面から豊臣家を見た著者の見解です。

 

豊臣家の朝鮮出兵というと、一般的なイメージではその急速な立身出世に見られるように秀吉は非常に強欲であり、日本国内だけでは飽き足らなかったから当時の朝鮮も手中に収めようとしたのだ、と言われる部分もあります。

 

学生時代にこの部分を勉強していた時はなんとなく違和感はありました。具体的に言葉で言い表せるようなものではありませんでしたが。なるほど、組織面から著者のように見ていくと納得がいきます。

 

この事例を教訓にしたのが後の徳川家康です。家康は機能体組織としての成長志向を否定し、縮小均衡政策をとります。つまり機能体組織から共同体組織へと路線を変更していったわけです。その具体的な事例として次のようなことを行っていったわけです。

p.44 徳川の「武装解除」

ところが、徳川時代に入ると、荷駄者と黒鍬者は幕府によって禁止されてしまう。武士の機能を領国治安に限定した幕藩体制では、糧秣輸送の専門部隊(荷駄者)を必要とするほどの長距離遠征はあり得ない。

 

戦場における築城や陣地構築もあり得ないから黒鍬者(工兵)も不要である、という理屈からである。特に寛永以降になると、軍隊編成の「組」も崩れ、集団的組織的軍事行動を行うことも不可能になった。

まとめ

ここまで書いてきたように、戦国時代のような動乱の時代には共同体組織ではく、機能体組織が有効だと考えられます。

 

また天下統一を成し遂げた後は、機能体組織として拡大しようとするのではなく、江戸幕府の事例にもあるように共同体組織の方が有効であると考えられます。

 

要はどちらかが良いかというわけではなく、時と場合によって、「組織を使い分ける」という発想が重要なのではないでしょうか。

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