「自由」を得るために、捨てなきゃいけなかったモノがたくさんあったんだけど、「自由」が当たり前になっちゃうと忘れちゃうんですね。その「自由」を得るために多くの犠牲を払ったことを。
だから、忘れちゃいけないんだな。
自由の大切さや貴重さを。
捨てなきゃいけなかったモノの一つは、老後の備えです。老後に備えようと思ったら、会社辞めないのが一番です。でもね。
今を死んだように生きて、老後に備えてもしょうがねぇだろ、って思ったんですよね。
今回引用させていた文章のブログの名前は『自由になりたくて47歳で会社を辞めたらこうなった』です。このブログの運営者様は、ブログタイトルの下の説明文ににあるように、「会社を辞めたい 自由になりたい」と思って2015年に47歳で会社を辞めた妻子ありの元サラリーマンの方が書いていらっしゃいます。
この方のブログは、自分がインターネット上で調べ物をしていた時に偶然見つけました。非常に示唆に富むブログであり、自分の人生についていろいろと考えさせていただける内容です。特に今回引用させていただいた文章は以前から思うところがありまして、そのことで自分の考えを書いていってみます。
「今を死んだように生きて、老後に備えてもしょうがねぇだろ」という言葉について
>「今を死んだように生きて、老後に備えてもしょうがねぇだろ」
そう、そうなんですよ。自分は以前からこのことについてずっと考えていました。実はこのブログ内では、この言葉と同じような内容の記事を過去に書いています。
- 現在という時が未来に「隷従」させられている、という発想について – 知識の倉庫の整理
- 我慢の行き着く先にはおそらく80年間の我慢という牢獄生活しかない – 知識の倉庫の整理
- 負けの法則から学び、考えられなくなることで動物になっていく恐怖から逃れなければならない – 知識の倉庫の整理
自分と同じような考えを持っている人がいるというのは何だか嬉しいです。なぜなら、「もしかしてこんな考えを持っているのって世界で自分だけなのだろうか?」と考えてしまう時があるからです。もしかして自分はおかしい人間なのかな、と。
うん・・・。自分もここまでいろんなものを捨ててきました。というか自分の性格から捨てざるを得なかったというのが正確ですね。
今の時代は多くの人が安定を求めています。特に今のような将来が不確実性が高い社会ではなおさらです。みんな正社員になりたがります。
どんなに激務でも頑張って続けようとします。自分の命を失っても。
でも、それって本当に自分の命を懸けるようなものなのでしょうか?自分が「こうだ」と思っていた世界が実は「幻想」なのかもしれません。
そのことについては、以下の過去記事で書いていきました。
実は「夢」を見させられているのかもしれません。
「これだけ頑張ったら部長になれる」
「定年まで頑張れば国が年金という形でその後の人生を保証してくれる」
本当かもしれないし、嘘かもしれません。自分はまだその立場に立ったことがないのでなんとも言えません。
周りの環境をよく観察してみれば明らかにおかしいということがわかるはずなのですが・・・
「その人の頑張り次第で部長にも役員にもなれる」
本当にそうでしょうか。
以前からこの考え方は疑問に思っていました。「本当にそうなのか」と。
「本当に頑張った人で優秀であれば出世できる」
ではなぜ会社で20代や30代で役員や社長を見かけることがないのでしょうか。新しくできた会社で、その会社を立ち上げた人たちの年齢が若いのであれば20代や30代でも社長や役員の人はいます。
ですが、世界的な歴史ある大企業で20代や30代の社長は見たことがありません。世界中の全ての会社を調べていけばそういった会社はいくつか見つけられるかもしれませんが。
結論を言ってしまえば、「会社の出世」とか「何歳までにこの額の給与」というのは「だいたい決まっている」んです。
「レール」というものは本当に存在する
もっと具体的に言うと、入社して5年目は○○円、10年目は××円、高卒の5年目は△△、この役職になったら□□円という感じです。
「何を今更」とか「えっそれが普通じゃない?」と思う人もいるかもしれません。
自分の今までのイメージでは「このレベルのこの仕事ができるようになったら『○○円』ぐらいになるんだろうなぁ」と考えていました。
自分はこのブログで働き方というものについていくつか記事を書いているのですが、ここまで10社近く働いてきています。
そして経理という職種ということもあって、会社の内部的な情報や資料も目にする機会があります。最初そういった資料を見てしまったときは愕然としました。
「あっ・・・、本人の努力とか意志って関係ないんだ・・・」と。
そのような経験や知識から気づいたのは、「最初から決まっている」ということです。もちろん多少の個人差はあります。
よく世間では「レールから一度でも外れると社会からは見放されてしまう」とか「もう前と同じ額の年収をもらえるチャンスはない」といった言葉があります。
以前はこういった言葉に対して自分の心の中では馬鹿にしていました。
「いくらなんでもそれは言い過ぎだろう。まさか最初から最後まで起きることが全て決まっているわけがない。」
そう思っていた時期が自分にもあったんです。
日本人はレールから外れることを極度に恐れます。かくいう自分も以前まではそうでしたが「こんな卑怯なことをやり続けないと生きていけないのなら死んだ方がマシだ。」と考えて早々にレールから脱線してしまいましたが。
無理。出世というもののために人を蹴落としてまで、自分だけ安全な所で口だけ出してぬくぬくと生きていくなんてできないです。
「最初から決まっている」ということに対して、「いや違う」とか「うちはそうじゃない」という意見もあるかもしれません。
ですが、日本全体の企業活動において、これだけ一定方向に「一律」になっていることに対しておかしいと思わない方がおかしいと自分は感じます。
だってそうではないですか。なんでみんな課長になれるのはだいたいこれぐらいの年齢の人たちで、部長になれるのはだいたいこれぐらいの年齢の人達という風に年齢が一定しているのでしょうか?
本当に違うのであれば、会社員(役員や社長を除く)でも結果次第で1億円とか10億円の給与を出してもらえる会社が存在してもいいはずです。探せばあるかもしれません。
ですが、存在していたとしても本当に一部の例外的な会社だけでしょう。つまりは、日本における会社組織とはそういうことなのでしょう。
下の世代を騙してきたツケは結局自分達に返ってくる
社会人になる前の人達に、事前にこのことをしっかり伝えるべきだと自分は思っています。何も知らない人たちに「正社員で働く事が幸せなんだ」としか伝えないことは卑怯ではないしょうか。
社会人として正社員で会社で働くということは「こういうことなんだ」と事前に伝えるべきだと思っています。
「君達にはこれから二つの選択肢がある。ひとつは安定が保証されている(かもしれない)道だ。しかしその代償として自由を奪われることになる。
自分の意見とか自分の考えを持っていると逆に苦しくなる。上司の顔色を常に伺うように。」
例えば大学などで、学生に対してこういうことを事前に伝えることが義務化された場合は多くの人が正社員という道を避けるでしょう。まぁまずこういったことにはならないでしょうが。
自分はこのブログで以下のような過去記事を書いてきました。
『正社員という働き方は「定額制」という見方』
まぁそういうことなんだろうなぁと思います。
なぜ「正社員で働く事が良いこと」とされているのか。
なぜ「会社で働く現実」というものが伝えられないのか。
「夢」を見せ続けないと困る人たちがいるからでしょうね。そのことについては以下のような過去記事を書いてきました。
「産業界や上の人たちの都合の良いように動かせるようにするため」に真実が伝えられないのだろうなぁと思います。
「言われなくても自分で気づけ」ということでしょうか。
そうでしょうね。事前に社会に出る前の人間に真実を伝えてしまったら、多くの人が会社で働くということや正社員として生きる道を避けてしまいます。
「そんな人生割に合わない」から、と。
上の役職や高齢者の生活を安定させるために、下の世代を騙すとか真実を伝えないっていうのは良くないことだと思うんですよね。
「考える」ことができないようにするために、真実を伝えないとか幼児化のまま大人にさせるとか、無知のままにさせておくとか、結局その報いは上の人たちに返ってくるわけで。
「考えさせない」ようにしてきた結果、日本の製品やサービスは世界において相対的に徐々に競争力を失っていっているわけで。
「考えさせない」ようにしてきたことで、「考える」ことが必要な知識集約産業への移行がスムーズに進まない、結果日本の「生きる力」とか「稼ぐ力」が世界との比較において低下。
そうなると、賦課方式の日本の年金制度が維持できなくなってくる。今は「下流老人」という言葉も出てくるような時代です。
やっぱり因果応報ってあるなぁと思います。
10社近く働いてみて良かったこと
自分はこの年齢で既に10社近くも会社を転々としてしまいました。世間的には間違いなく「クズ」とか「底辺」と呼ばれるでしょう。
それでも悔いはありません。10社近く働いてきて良かったことは、会社の正社員というものに対する「幻想」から解放されたことです。
他の人はどう思うかはわかりません。ですが、少なくとも自分にとっては会社で正社員として働くことに対して「頑張れば報われる」という考えはなくなりました。
これは本当にありがたいことで、「自分がもっと頑張ればこうなっていたかもしれない」とか「もっと上手くやれていたらこうなっていたかもしれない」という期待を抱かなくても良くなったからです。
以前は会社の役職者、課長とか部長レベルの人とか内部昇格で役員や社長になった人たちに対して無条件ですごいとか、すごい優秀な人たちなんだろうなぁと思ていました。
しかし今は、
「あっ・・・(察し)」とか
「この人たちは世の中に対して『疑問』を持たなかったのかな」とか
「この人たちはもしかしたら非常に多くの人を犠牲にしてきたのかもしれないな」
といった感じで見るようになりました。
今を死んだように生きて、老後に備えてもしょうがねぇだろ、って思ったんですよね。
冒頭の引用文です。
本当にこの言葉の通りだと思います。未来が自分の都合の良い方向で決まっているであればまだいいかもしれません。
ですが、悪い方向で決まっているもののために「今を死んだように生きる価値」があるのか、と自分は思うのです。
たぶんこの記事を読んでくださっている方は、ここに書いてある文章だけでは納得されないかもしれません。
自分も以前はここに書いたような言葉には納得していませんでした。自分の中である程度の整理がついたのも自分なりに実際に「経験」してきたからです。
「論より証拠」という言葉もありますし。
ですから、この記事を読んでくださっている方で会社というものに対して不満をもっている方は、何らかの考えるための助けになれれば幸いです。
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更新日 2019年3月12日 7:50 PM